今日のテーマは、『山頂からの景色を見たことのない人間は、その景色の美しさを知る由もない』です。
先週の公式ブログでは『資産形成を成功に導くため、知能指数は必須条件として求められるのか』と題して、経済的自由を実現する上でそれ(IQ)が大きなアドバンテージに働くことをご紹介しました。
仮に、もしこの主張に反論する人がいたとしても、間違ってもその正反対の事象、賢さがディスアドバンテージに働くということには同意しないと考えます。
もちろん、それは十分条件(頭の良さ=経済的成功度合い)ではありませんが、人生のあらゆる場面で共通して、賢明さが利点になることを疑う余地はありません。
今日取り上げるテーマについても、それに通じる部分があるかも知れませんね。
最近、プライベートで子育て談義に花を咲かせる場面があったのですが、連続して『子どもに高い学歴を求めない』という意見に遭遇して、個人的には違和感を感じられずにいられませんでした。
子どもにプレッシャーを掛けたくない、好きなことをしてくれれば良いという意見は、一見すると(浅い思考回路では)美談のように映ってしまいますよね。
確かに、人生において『学歴』以上に大切なものは確実に存在していますし、身体的・精神的な健康、社会性や礼儀正しさ・倫理観の礎がなければその上に何を築いても無意味なことは理解しています。
ただし、それらの土台(身体的・精神的な健康、社会性、礼儀正しさ・倫理観)を築いた上で『子どもに高い学歴を求めない(希望しない)』のであれば少し無責任な気もしてしまいます。
もちろん、自ら(親自身)が努力をせずにそれを子どもに求めるのは論外ですが、果たして、学歴不要論は本当の意味で子どもの人生を思いやっていることになるのでしょうか。
結論からお伝えすると、私見では『高い学歴』には相応の意味・価値があると感じています。
私自身、国内の最高学府(東京大学・京都大学)出身者ではありませんが、一般的に見ると高学歴に分類される資格を保有しており、それについてデメリットを感じた場面は人生で一度もありません。
かれこれ10年以上、事業家として活動しているので学閥等の恩恵は当然まったくありませんが、それでも尚、自らが歩んできたプロセスは間違っていなかったと断言できます。
何故なら、大学を卒業して、一流企業に就職して社会人としての仕事の仕方を習得して、自らの事業を興すというプロセスで、それを保有する者しか見られない景色を見てきた自負があるからです。
仮に、20代前半からMR(医薬情報担当者)として医師と密に接する経験がなければ、真の意味での経済的豊かさもイメージできず、世間的に言われる富裕層の価値観も知らないままだったはずです。
20代を通して体得した仕事に対する考え方、スキル、価値観や常識観は、独立系ファイナンシャル・プランナーとして経営者や医師を対象とする今の活動にも確実に生きています。
これは様々な意見を聞きながら気付いたことですが、『子どもに高い学歴(教育)を求めない』と話している人たちは、総じてその人たち自身がそれ(高等教育を受けた経験)を持っていません。
なるほど、自らが山頂からの景色を見たことがないのであれば、その美しさを知らないのも必然かも知れませんね。
反対に、その景色の美しさを知る人間からすれば、あらゆる意味で豊かな人生を送るため、子どもにもその景色を知って欲しいと願うのも当然だと考えます。
日本においても学歴社会の崩壊が叫ばれて久しく経ちますが、そんなことは関係ありません。
スタンフォード大学で実施された有名なマシュマロ・テストの話では、聡明さを持つ子どもは追跡調査の際も高い学歴を獲得しており、それ以外の群と比較して収入格差も倍以上あることが分かっています。
2025年になった今尚、この世界は正当な努力をした人たちが、正当に報われる確率が高まるというシンプルな原理に支配されて回っています。
井上耕太事務所(独立系FP事務所)
代表 井上耕太






