今日のテーマは、『ソフトウェアのアップデートなくして、日本の少子化問題は奏功するか』です。
日本で『少子化』という言葉が使われて久しく経ちます。
それは、1970年代後半に合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子どもの推定人数)が低下したころから問題視されはじめ、半世紀が経過した今となっては当時の想像を絶するほどに状態が悪化。
実際、日本で出生数が最多だった大戦直後の1949年(約270万人)から比較すると、私が生まれた1980年代前半はほぼ半減した年間150万人ペースまで落ち込んでいます。
また、2000年代に突入してからは減少速度が異次元の領域に足を踏み入れており、2016年、遂に統計開始から初めてとなる年間100万人を割り込む水準にまで減少しました。
さらに、タイミングわるくコロナ禍が直撃して以降は回帰不能点を超えたと見られ、昨年(2024年)の出生数は68万6061人と想定より14年(*)も早く70万人を下回っています。
*国立社会保障・人口問題研究所が令和5年(2023年)にまとめた将来推計人口の中位推計では、2038年(令和20年)の出生率が約69万2000人になるとされていました。
国家として、人口を維持していくには2.1程度の出生率が必要だと言われていますが、昨年(2024年)は合計特殊出生率も1.15と過去最低を更新しています。
正直な話、すでに『詰んでいる感』が漂っていることは否めませんが、日本政府はまだまだ諦めてなく(?)2030年までがラスト・チャンスになると躍起ですよね。
ただ、政府が主導するハード面(外的要因)からのアプローチ方法だけで、日本の『少子化問題』が本当に解決するかと言えば疑問を感じずにはいられません。
確かに、年間50万組を割り込むまでに低下した婚姻数を回復することや、子育て支援策を拡充して、国民全体に『子どもを持とう』と思わせることは大切ですよね。
しかし、実際に子育てをしている親の立場では、日本全体として子育て世帯・子育てする人たちにとって『優しくない社会』になっていることを実感する場面は多々あります。
例えば、先日も次のようなことを経験しました。
子どもを連れて日常の買いものをしていたところ、途中から寝入ってしまい、私が抱き抱えながら精算へと向かわなければならなくなってしまいました。
その際、60歳前後とおぼしき女性スタッフに商品(3品ほど)の袋詰めを協力するよう依頼したのですが『決まりとして出来ないことになっている』と真っ向から断られてしまいました。
もちろん、レジスタッフの方々の業務削減のため、また、スムーズなレジ運営のために『スタッフによる袋詰め禁止』をルール化すること自体は否定しません。
しかし、その時の状況を少し説明すれば、私たち以外にレジ待ちをしているお客さんはおらず、反対にレジのブース内には4名のスタッフがいて手持ち無沙汰という状況。
にも関わらず、眠った子どもを抱き抱える親を目の前にして、『ルールだから』と協力を断る人間がいることに驚愕してしまいました。
その他にも、街中をベビーカーで移動していると前に割り込んでくる老若男女が想像を絶して多いことや、子どもたちが騒がしいことに嫌悪感を露わにする大人(?)も沢山いますよね。
最近では『子連れさま』なる揶揄する言葉まであるようですが、そういう言葉が生まれること自体、他人に対して無関心な人間がかなりの割合で存在する異常な社会のように映ります。
当然ですが、未来を担う子どもたちが減少すれば国家として衰退の道を辿ることは明らかで、子どもを持つ・持たないに関わらず、巡り巡って自らも不利益を被ることになります。
だから、子どもたち・子育て世帯に寛容になれという訳ではないですが、そのような常識的なことも理解できない人間が日本では少しずつ増殖しつつあるのではないでしょうか。
かつては多数派だった『結婚して、子ども持ち、家庭を築く』という日本人のモデル・ケースとされていた人たちが、時代の流れで少数派へと転じてしまったのかも知れません。
日本という国は、滅ぶべくして滅ぼうとしている。日本人のソフトウェア(心理面)の劣化を目の当たりにすると、それはそれで致し方なしだと感じてしまうことすらあります。
井上耕太事務所(独立系FP事務所)
代表 井上耕太