今日のテーマは、『令和のコメ騒動問題に見る、私たちが国家に主導権を委ねることの危うさ』です。
唐突ですが、直近1年間だけでもコメ(米)価格が驚異的なペースで上昇しましたね。
先日、自宅近くのドラッグストアで何気なくチェックしたのですが、昨年は2キロ・1000円程度で売られていた北海道産・ゆめぴりかが今では倍値の2000円超になっていて驚愕しました。
私自身、自治体の食糧支援制度によりお米クーポンが配布されたり、元々が定期購入しなくて良い立場にあるため本当に恵まれていると実感しますが、同じ状況にある方は少数派だとも理解しています。
基本的には、大半の日本国民が厳しい立場にあり、特に、育ち盛りのお子さんが複数いらっしゃるご家庭等の消費量は相当なもので、まったく大袈裟ではなく死活問題に直面されていることでしょう。
話題にする米価については、これまでが異常なほど低い水準にあり、今こそが適正水準であるとの議論もありますが、専門外の分野であるためこれについては正確には分かりません。
確かに、ブランド米ですら5キロ・2000円台で購入できた時代は消費者サイドに割安感があったことも事実で、その水準ではコメ農家がやっていけないという意見も強ちウソではなさそうです。
しかし、問題はその上昇ペースで、前述の通りわずか1年ほどで販売価格が倍値になってしまっては、私たち国民の生活はダイレクトに打撃を受けることになってしまいます。
さらに、ここにきて農林水産省は事実上の減反政策とも言える『(コメの)需要に応じた生産』という文言を法律に盛り込む方針であることが判明しました。
一時期、石破茂・前政権下では数十年ぶりに米の増産に舵を切る方針転換がありましたが、具体的な数値目標を定めるまでに至らず、そのままうやむやになり頓挫してしまったという経緯があります。
今回、話題にあがる(需要に応じた生産という)言葉の法律への明記により、今後、政権交代が起きても判断の急転換を縛り、コメ政策の原則を安易に書き換えられなくなる仕組みになります。
つまり、日本国としては今後も『減反政策』を基本路線として、適正な価格水準(?)を維持しながら、それ(コメ)を国民に提供していくことが出来ると考えているということです。
ここで改めて考えてみると、私たちが主食とするそれはかなり特異な存在です。
何故なら、通常、モノの価格は生産費や人件費等を考慮してコスト積み上げ方式で決定されますが、先週末の記事で話題にした暗号資産と同様、米価は需給バランスにより決定されるところが大きい。
江戸時代、大阪・堂島で米の差金取引がされていたことは有名ですが、両者(需要・供給)が拮抗する局面では米価は適正水準に収まり、どちらかに大きく触れれば暴落、若しくは高騰が起こります。
そう考えると、300年近くの長きに渡り、日本人は主食である米(コメ)を取引対象として博打を打ち続けているのかも知れません。
話を戻すと、金融・経済と同様、非常にセンシティブな値動きをする米価格を、中央政府が適切にコントロールできるという考え方(前提)自体に少なからぬ違和感を感じてしまいます。
私見では、海外諸国で『小さな政府』を支持する動きが活発化しているように、米価格だけに限らず、政治家・官僚等の介入を最小限に留めて、市場原理に委ねたほうが上手く機能すると考えます。
もちろん、それが実現した社会では国民一人ひとりにある程度の『責任』も求められることになりますが、自ら思考して・行動できる人たちにとってはより良い社会が実現する可能性が高まります。
少し飛躍するかも知れませんが、社会保障(年金・医療等)の問題と同様、他者への依存を強めることは大きな代償を伴うことを理解しておくべきかも知れません。
井上耕太事務所(独立系FP事務所)
代表 井上耕太





